ふわふわと、心地よいシアワセに包まれて。
アナタの笑顔は、まるで、魔法みたい。




「Tipsy Love」 

 
「はい、じゃ、次の授業までにいま言ったとこやっとくように」

うつむき加減でボソボソと話しながら、センセイは教壇の上の教科書やノートをバサバサと片付け始めた。
それから、「黒板、消すから、まだノート取ってない人手上げて?」
またしてもボソボソとそう言ってぐるりと教室を見回し、誰も手を上げていないことを確認すると、
汚い字で書きつけた黒板の板書をさっさと消す。
わりと背が高いから(176cmということは調査済み)、上の方も楽々手が届く。
アタシじゃ背伸びしてやっとだから、そんなところにもちょっとときめいてしまう。

......ていうか、黒板を消すのは日直の役目なのにね。
数学のベクトル(もちろんあだ名)なんか、毎回黒板の端から端までぎっしりみっしり書きつけておいて、
当然のように一文字も消さずにさっさと教室出てっちゃうのに。

一度センセイに言ってみたことがある。
「赤西先生、黒板消しは日直の仕事だから、そのままでいいんですよ?」
そしたら先生はちょっと不思議そうに小首を傾げた後、いつもの調子でボソボソとこう言った。
「いや、オレが書いたんだから、自分で消すよ」

ナニ言ってんの、そんなの当然じゃん。

そんな風にニッと笑ってセンセイはそのまま教室を出て行った。

黒板を消すセンセイの後姿がアタシはもともと好きだったけど、
その言葉を聞いてからもっともっと好きになった。

センセイの優しいキモチが、その背中にじんわりと滲んで見えるから。


今日もセンセイは当たり前のように黒板を消す。
そして最後に両手をパンパンとはたいて「じゃ、終わります」と小さく告げると
そのまま教室を出て行った。

一度、チョークの粉にむせたのか、ケホケホと咳き込んだ後、スン、と小さく鼻をすすったセンセイに、
教室中が大爆笑したことがあった。
そのときのセンセイの照れたような怒ったような何とも言えない様子がまた可愛くて、
ますますみんなの嬌声を煽った。

センセイは人気がある。

ビジュアルは非の打ちどころなくカンペキだ。
シュっと尖った顎のライン、スラリと長い手足、フワフワの黒髪。
腕まくりした白いシャツ、授業のときだけかけてる黒縁のメガネからのぞく澄んだ瞳。
オトナのくせに、すごくキレイな瞳。
どれもこれも、普段間近に接する男性と言えば家族かおじさんの先生のみ、という
アタシたち女子高生にとってはかなり刺激が強い。

センセイが新任の英語教師として初めてアタシたちの学校にやってきたとき、
4月のまだどこかひんやりとした感じが残る体育館が生徒たちの熱狂で暑くなった。
っていうのはちょっと大げさかもしれないけど、名前を呼ばれた先生が壇上に上がった時の
みんなの驚きと興奮と言ったら大変なものだった。

でも、センセイは、万人に好かれるタイプ、ではない。
カッコイイのは誰もが認めるところだけど、無愛想だったり口数が少なかったり、
そういうところをニガテって言う子も大勢いる。
顔だけが好き、って子も。
連れて歩くにはちょうどいけど、真剣につきあう相手としてはねえ、なんて、
10コも年下の女の子たちに、恋愛話の格好のネタにされてること、
センセイは少しも気づいてないだろう。

アタシ、は。

アタシは、センセイの笑った顔が好き。
普段は大人びて近寄り難い雰囲気なのに、笑うと10コも年上とは思えないほど、
無邪気な男の子みたいになる。
そのことをクラスメイトに話した時、みんなは、「えぇ、赤西、笑うの?!」と信じられない顔をした。
「そりゃ笑うでしょ......人間なんだから......」アタシが呆れてそう言うと、
「でも、見たことないよねぇ?」ってお互いの顔を見合わせる。

確かに、教室では笑ったこと、ないかも。

いつもボソボソと、でも日本人とは思えない流麗な発音で、淡々と授業を進めていく。
ときどき口元に手を当てて何か考えているときもあるけど、それ以外は本当に淡々と進めていく。
そして、最後に黒板をささっと消して、生徒との談笑に講じることもなく、すっと教室を出て行く。

「でもさ、1時間目のときの寝ぼけた顔は可愛いよね」と一人が言う。
それにはみんなが一斉にうなずいた。
「そうそう、あのボサーッとしたカンジがたまんないよね!」
「前なんか、後頭部、寝グセついてたし!」
「うんうん、ベクなんかがアレだとゲーッて思うけど、赤西のビジュだったらむしろ好感度アップだよ」
みんなしたり顔でウンウンとうなずき合っている。

センセイ。
センセイったら、ホント、人気者。

結局、なんだかんだ言いながら、みんながセンセイのこと気になって仕方ないんだ。
そう、センセイには何かそういう人を惹きつけてやまない魅力がある。
センセイのこと、知れば知るほど、好きにならずにはいられない。

アタシが初めてセンセイの笑顔を見たのは、センセイが着任してからしばらく経った、6月のある雨の日曜日。
梅雨だというのに傘を持たずに出かけたアタシは、案の定シトシトと降り出した雨を避けるように、
駅へと続く歩道橋の下に駆け込んだ。
少し待ってみてやまなかったら、このまま濡れて駅まで行こう。
そう考えながら灰色の空から落ちてくる無数の雨粒をぼんやりとみつめていた。
もう出たほうがいいかな、なんて思い始めたちょうどその時、アタシが駆け込んだときの勢いそのままに、
誰かがその狭い空間に駆け込んできた。

頭をブルルと降って濡れそぼった髪の雫を落とす。
子犬みたいだな、なんて思いながら、隣に並んだその人の顔をチラリと見た。
「......あ。」

赤西、センセイ。

アタシの視線に気づいたセンセイがこちらを見る。

「......うちの、生徒?」
「あ、はい、2年2組の......」
「ん、知ってる。傘は?」
「持ってなくて......」
「そっか、そだよな。だからココにいんだもんな」
「はい、あの、やみそうにないから、もう行こうかなっていま考えてたんです」

行かなくて、よかった。

歩道橋の階段裏のスペースはとても狭くて、アタシとセンセイの距離は肩が触れそうなくらい近かった。
たった今走って来たせいか、センセイの体温がふんわりと伝わってくる。

あ、なんか。
ヤバイかも。このカンジ。

どんどん心拍数が上がって、息が苦しくなって。
どうしよ、アタシ。
なんかしゃべんないと。
意識しすぎてアタマがおかしくなっちゃうよっ......!

「あ、ネコ」
ぼそっとセンセイが呟いた。
この歩道橋の階段裏のスペースには、いつもこの白に黒ブチの大きなネコがいて、
いろんな人がネコ缶やニボシなんかを持ち寄って可愛がっているのだ。
誰かが用意した段ボールの中で、ネコは小さく丸まっていた。
覗き込むセンセイに気づくと、ゴハンを持ってきてくれた人だと勘違いしたのか、
ネコはのっそりと段ボールから這い出て、ゴロンとおなかを見せて横たわった。
ゴロゴロとノドを鳴らしながら、手足を伸ばし切っておなかを見せながら、にぁ、と鳴いた。

「ちょ、オマエ、どんだけ伸びきってんの笑」
そう言って、濡れた前髪をかきあげると、センセイは嬉しそうに笑った。

あ。
笑った。
初めて、見た、かも。
すごく、すごく、可愛い、かも。

「ホントだ笑 警戒心、ゼロですね笑」
そう言ってアタシも笑った。
「な、コイツ、よっぽどみんなに可愛がられてんだな笑」
センセイはネコの前に屈みこみ、そのしろいおなかとノドを何度も何度も撫でた。

「ゴメン、期待させてわりぃけど、オレ今なんも持ってねえんだよ、オマエの好きそうなもの」
「あ、アタシ、あるかも」
そう言って、アタシはさっきデパートの物産展で買った削りたてのカツオ節を、持っていたビニール袋から取り出した。
きょとんとアタシを見て、またセンセイは楽しそうに笑った。
「てか、なんでそんなもん持ってんの!笑」
「や、あの、アタシ、お出汁が好きなんです。これでとったお出汁、試食で出てて、すごくおいしかったから」
なおもセンセイは笑う。
「イマドキの女子高生ってそうなの?おもしろいんだけど笑」
「赤西センセイ、笑いすぎ」
アタシはカツオ節を右手でざっくり掴んで、これまた誰かが用意したらしき器にこんもりと入れた。

ブチネコはゴロゴロとノドを鳴らしながらも、撫でていたセンセイの手を急に無視して
むっくりと起き上がりそそくさと器に近づくと、懸命にカツオ節を食べ始めた。

一瞬キョトンとした後、センセイはネコのおなかを撫でていた右手を口元に持っていくと、
さも嬉しそうにクックッと笑った。
「つーか、オマエ、ヒドクね?笑」
そう言ってセンセイはいつまでも笑い続けた。
アタシもなんだかとても嬉しくてシアワセで、センセイといっしょにいつまでも笑ってた。

シアワセ。
なんでだろ。
ただ、センセイがそこで笑ってるだけなのに。


たぶん、あの雨の日からずっと。

アタシは、センセイのことが、好き。


そんな風にして時は過ぎて、アタシはずっとセンセイのことだけ見ていて、3年生の夏が来た。

センセイを見ていられる、最後の夏。
季節が変わるたびにアタシの中にはそんなキモチばかりが溢れた。
伝えたくて、でも伝えても仕方なくて。
センセイはどうするかな。どんな顔するかな。
アタシがセンセイを好きだと言ったら。

あの雨の日、ふたりでネコにカツオ節をあげてから、センセイは他の子よりは少しだけ、
アタシに心を開いてくれているように感じたけど。
それはアタシの勝手な思い込みで、ただ単にマジメで従順なアタシは生徒として
扱いやすいだけなのかもしれない。

だって、生徒だもん。
アタシは生徒で、センセイは先生だから。

だから。


このところ、毎日そんなことばかり考えていて、授業中もボーっとすることが多くて、
ある日数学の時間にたまたま機嫌の悪かったベクトルにこっぴどく叱られた。

「この問題集、ここからここまで!今日中に提出するように!」
そう怒鳴ってテキストをアタシの目の前に押し付けると、
舌打ちしながらベクトルは教室を出て行った。

「ゴメンッ、今日はどうしても帰らなくちゃいけなくって......ホント、ゴメンねっ」
何人かの友達が申し訳なさそうに言って、力なく手をふるアタシにアタマを下げながら帰って行った。

「はぁぁぁ......もー、やんなる......」
深く溜息をつきながらもノロノロとテキストを広げて、渋々問題を解いていく。

指定されたページをすべて終えたのは、2時間後のことだった。
腕時計をチラリと見ると午後6時をとうに過ぎていて、さすがの夏の日差しも除々に弱くなり始めていた。

帰る支度をして、トイレに寄って、それから先生の個室がある別棟に向かった。
渡り廊下を渡るとき、ふわりと涼しい風が吹いて、じんわりと汗が滲んだ肌に心地よかった。

夏の匂い。

立ち止まって目を閉じる。

センセイ。
また、センセイの顔が浮かぶ。

最近のアタシはいつでもこうなのだ。
どんなときも、何してても、いつも想うのはセンセイのことばかり。

ベクトルの個室のドアにたどり着くと、プレートはすでに「帰宅」になっていた。

「・・・ちょ・・・今日中にやれって言ったくせに・・・」
脱力しながらポストにノートを突っこんだ。

そのまま階段に向かう。

2つ隣が、センセイの部屋。

プレートは「在室」。

アタシは、それがまるで当たり前のように、トントン、とその扉をノックした。

返事は、ない。

トントン。

もう一度、トントン。

それから、そっとドアノブを回す。
鍵はかかっていなくて、すんなりとその扉は開いた。

「センセ......?」
開いたドアの隙間からそっと中を覗き込む。

......いた。

窓際に置かれたデスクにうつぶせて、スースーと寝息をたてている。

コクリ、と唾を飲み込むと、アタシはそっと部屋に入った。
ゆっくりと慎重な動作とはうらはらに、心臓はうるさいくらいに暴れている。

深呼吸すると微かに息が震えた。

いつものメガネはデスクの端に投げ出された右手に握られてた。
小さく開いた窓から静かに入ってくる風が、額にふんわりかかる前髪を揺らしている。

薄く開いた唇から微かに漏れる寝息。

「......セン、セ......?」
そっと肩に触れても、少しも動かない。
額にかかった前髪をそっとかきあげてみる。

起きない。

睫毛、ながぁい......
キレイな頬......
窓から差し込むオレンジ色の西日が、センセイのキレイな顔をくっきりと照らしている。

その頬にそっと触れて、それからアタシは、センセイの唇にキスをした。

「センセ、大好き」

耳元で小さく呟くと、アタシは踵を返し、その部屋を出て行った。


仕方ないことだとわかっていても。

伝えずにはいられなかったよ。
アタシの一番大事な、どこか不器用なアナタに、
誰かがこんなにアナタのコト好きだってこと、
誰かがこんなにアナタのコト必要にしてるってこと、
知っててほしかった。

ずっとずっと年上で、ずっとずっとオトナだけど、
アタシはアナタを守りたい。

こんな風に誰かを好きになったこと、今までなかったよ。


まるでお酒に酔ったように、アタシは千鳥足で廊下を歩き、
ふわふわと手でリズムをとりながら、階段を下りた。


こんなキモチ、アナタしかくれない。

まるで魔法みたい。

アタシがアナタを必要とするように、
アタシがアナタを好きなように、
アナタにも感じてほしい。

今まで知らなかった、こんなキモチ。

あした、センセイの目を見て言おう。

アタシは、アナタが好きです、と。