螺旋の海 エピローグ

「『……キスによって目覚めた王女は王子と結婚し、二人は末永く幸せに暮らしました』 おしまい。さあ、今度は何を読もうか」


 椅子に腰を下ろしたヨハンが絵本を閉じる。すると周囲の子供たちがわっと沸き立った。
「あのねあのね、ヨハン先生、『眠り姫』の次はこれを読んで―。絵がかわいいの」
「ええー、次は『モモタロウ』がいいよ。ヨハン先生が持ってきてくれたやつ」
「あっ僕もそれがいい!」
 それぞれが好きな絵本をせがんでいると、子供部屋のドアから一人の少年がひょいと顔を覗かせる。フランス国籍を持つ移民の少年だ。
「あ、ヨハン、このあと時間ある? 勉強教えてもらいたいとこがあるんだ」
 養護施設のほとんどの子供たちはヨハン先生と呼ぶが、彼は会った時から変わらずにヨハンと呼んでいた。
「ああ、じゃあ勉強部屋で待ってて。これが終わったら行くから」
「うん、わかった。後でね」
 少年がドアを閉めると、ヨハンは別の絵本を手に取り、子供たちに声をかける。
「それじゃ、順番に読んでいこうか。まずは『桃太郎』からでいいかい? 『むかしむかし、あるところに……』」



「あー、ここはこうなるのか。ヨハンの教え方ってすっごい上手いから、すっと頭に入ってくるんだよな。この前、学校でも先生に褒められたよ」
「そう、それはよかった。ボランティアの甲斐があるね」


 この海辺の街に来てからしばらくして、ヨハンは小高い丘にある養護施設のボランティアを始めた。主に子供たちの学習支援や絵本の読み聞かせなどを行っている。以前はスリなどの悪戯を繰り返していたこの少年も、近頃ではだいぶおとなしくなったようだ。


「ヨハンがここに来てから2年かぁ。もうすっかり街にも慣れたんじゃない?」
「ああ、もうそれくらいになるのか」
「肌も少しは日に焼けたんじゃ……ってやっぱり白いまんまか。俺さ、ほんとヨハンがここに来てくれてよかったと思ってるよ。勉強とかも自信ついたし」
 照れたように笑う少年にヨハンは微笑む。二人は教科書に目を移し、再び勉強に取りかかった。


 ヨハンにとっては夢物語のように過ぎていく、穏やかな日々。
 ドイツにいた頃、今と同じように施設のボランティアに携わったことがあったが、もうヨハンに死は付き纏わない。周囲の誰もがヨハンの名を呼び、ヨハンもそれを受け入れる。この海辺の街で、確かにヨハンは存在していた。



 施設からの帰り、ヨハンはひと気のない海岸に足を運ぶ。辺りを包む、静かな波の音と、鳥の鳴き声。水平線に沈む夕陽が一面を照らし、やがてすべてのものを紺青から闇に導いていく。
 海の光景に飽きもせず目を奪われていると、携帯電話の着信音が鳴った。テンマの番号だ。
『ヨハン? 今どこにいる?』
「海岸ですが。今から帰るところだけど、先生はどこにいるの」
『ああ、ちょうどそっちに向かってる』
 視線を前方に向けると、遠い浜辺の向こうから人がやってくるのが見えた。携帯電話を耳に当てながら歩いてくるのは、今しがた会話していた人物――テンマだ。テンマは携帯電話を懐にしまい、安堵の笑顔を見せた。
「やっぱりここにいたのか、ヨハン」
「おかえりなさい、先生」
「ただいま。荷物は先に君のアパートに置いてきたから」
 テンマが帰ってくる度に交わされる、些細な挨拶のやり取り。テンマは前に会った時より、わずかに髪が伸びていた。今回の派遣先は危険な紛争地域だと聞いていたが、無事元気そうだ。


 2年前、テンマを送り出してからその2か月後に、彼は約束通り会いに来てくれた。だがちょうどヨハンが留守にしていたせいで、冬にもかかわらずアパートの前でテンマを待たせてしまったことがあった。もうそんなことがないように、今は合い鍵を渡している。
 テンマも当初はホテルや短期滞在型のアパートに泊まっていたのだが、いつしか直接ヨハンのアパートに向かうようになった。


「それにしても、もっと早く連絡をくれたら僕も寄り道しないで帰ったのに」
「え、あ、まあ、そうだな……」
 テンマはなぜか歯切れが悪く、困ったように頬を掻いた。心なしか、頬の色も赤い気がする。話を逸らすように、テンマは言葉を続けた。
「あ…っと、この時間だと施設から帰ってきたところかい?」
「ええ。そういえばあの日本の絵本、子供たちに人気だったよ」
「ああ、『桃太郎』? そうか、それは嬉しいな」
 テンマはほっとしたように顔を綻ばせた。以前、子供たちの読み聞かせにいい絵本はないかとヨハンが尋ねてみたところ、フランス語に訳された日本の絵本をテンマは勧めてくれたのだった。


「ここは変わらないな……海も街も。見るとほっとする」
 夕陽に輝く海を見つめながら、テンマがぽつりとこぼす。二人は歩きながらしばし海を眺めた。
「お腹も空いたな。実はまだ何も食べてないんだ」
「ああ、帰ったらすぐ用意します。僕はあなたの料理が食べたいんだけどね」
「じゃあそれは明日にな。何を作ろうかな……」
 砂浜に残る、二人の足跡。他愛のない会話を交わしながら、二人は家路についた。



 不意に夢から覚め、ヨハンはゆっくりと瞼を開ける。
 部屋は暗く、時計はまだ夜明け前の時間を指している。そばで動く音がしたので目をやると、テンマがベッドの端に座りペットボトルの水を飲んでいるところだった。情事の後、二人は何も身に纏わずにベッドで眠りについていた。
 テンマはペットボトルをサイドテーブルに置くと再びベッドに横になり、ヨハンと目が合う。
「起きていたのか。ごめん、うるさくしてしまったかな」
「いえ、大丈夫……」
「……どうした?」
 ぼんやりとテンマを見つめるヨハンに、テンマが声をかける。
「今、夢を見ていたんだ」
「いつもの夢かい?」
 テンマが気遣うように言う。ヨハンがよく悪夢にうなされていることを彼は知っているのだ。ヨハンは首を振る。
「違う……でも、もう思い出せない。何だか懐かしい夢だった気がする」
「そうか」
 夢の記憶を振り払うようにヨハンはテンマの頬に手を伸ばし、軽い音を立てて唇に触れるだけのキスを落とす。テンマは目を細めると、ヨハンの背中に腕を回し、瞼を閉じた。


 初めてテンマを抱いた時からずっと、彼はヨハンを拒絶しない。嫌がる素振りも見せず、けれど甘い睦言めいたものもなく、ただ静かにヨハンを受け入れる。
 そしてヨハンの実験に付き合って数日を過ごし、1週間ほどもすれば、いつものようにこの部屋を旅立っていくのだろう。


『――本当の意味で人を愛することなんてできないのかもしれない。だからそれを埋め合わせるように必死になって人を助けている』


 2年前、揺らいだ瞳で吐き出されたテンマの言葉。あれは、彼の本心だ。そんなテンマをヨハンは愛した。もう見過ごすことのできない感情を、彼が教えてくれた。


 でも、と心の奥で叫ぶ声がする。
 でも、今はどう思っているの。僕を少しでも愛してくれているの、と。


 ――許されないことだ。
 今のこの平穏な日常さえ、本当は享受する資格などヨハンにはないのだ。
 だが、この日々も永遠に続くことはないだろう。どんな形になるにせよ、必ず終わりは訪れる。どちらかが先に死を迎えるかもしれないし、ヨハンの実験に飽きて、彼がこの地に来ない時がいつか来るかもしれない。


 だけど。
 だから――いずれ来たる終焉の時まで、この今を生きたい。


 ヨハンはテンマに身を寄せると、彼の心音に耳を澄ませた。テンマの指がヨハンの髪をやさしく撫でる。ヨハンを安心させる、生きているという実感。互いの体温を感じながら、心地よいまどろみに身を委ねていった。

<了>

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